便利な世の中の不便な出来事
今月1日~3日に出張していたときの話です。
2日の朝、携帯電話にかかってきた電話を取ってびっくり・・・。つながっているはずの相手の声が全く聞こえないのです。どうやら、私の声は相手に聞こえるけれど、私の携帯電話の不具合で、私は相手の声が全く聞こえない状態になってしまいました。まだ、買って1年ちょっとしかたっていないのに・・・と思いつつ、電話を叩いたり振ったりしながら、何度か回復させましたが、ついに翌日3日の午後には携帯電話の通話機能は完全にダウンしてしまいました。
しかも、そういうときに限っていつもよりたくさんの電話がかかって来たりするもので・・・。
普段当たり前に使っている道具が使えない不便さを痛感しました。
ひと昔前、携帯電話の基地局がまだ十分に整備されていない頃、携帯の電波が届かないことを、「圏外孤独」等と言っていたどころの話ではありません。どこへ行ってもつながらないのですから。
帰宅して、翌土曜日に早速、携帯ショップへ電話を持ち込み、修理の手配をしましたが、それから丸1週間、修理中の代替機として借りた電話が、使い勝手の悪いかなり古い機種だったこともあり操作のレスポンスの遅さ等で、肩こりとストレスに悩まされ・・・。
今日久しぶりに戻ってきた、自分の電話を手にして安堵しました。と同時に、なんか変な気持ちもしました・・・。
第三者的には些細な話でしょうが、個人的には、当たり前にある身の回りにある便利な道具に頼る生活に慣れてしまっていることを改めて考えさせられる機会となりました。
当たり前のことといえば、
誰しも今健康な人は、自分や家族等が健康であることは当たり前のように思っているはずですよね。でも、ひとたびそれが不足したり損なわれてみて初めて当たり前であった生活の大事さを痛感するなんて話を聞くことも多いですよね。
携帯電話の話から発展して、大げさな話に聞こえるかもしれませんが、
私たち人類は、急速にそして一層、日々便利になっていく世の中と引き替えに、もしかしたら大事な何かを失っているのかもしれないと感じます。
日々、日本はもとより世界中で劣化していく自然環境をメディア等で目の当たりにするとき、人間同士の相対のコミュニケーションが希薄となり様々な問題を感じずにはいられないとき、携帯電話や電子メールをはじめ便利な道具に囲まれて、でも、常に何かに追い立てられる生活が当たり前になった今、引き替えに何か大事なものを失っているような。それは、心身ともに(昔のそれとは違った意味かもしれませんが)ゆとりある生活であったり・・・そして、人や地球の安全や健康なのかもしれません・・・。
プラスの意味での「いい加減(ほどよいかげん)」「調和」・「折り合い」、自分自身、そんなことを考えさせられた出来事になりました。
皆さんは、どう思いますか?